波が割れる音だった。遠く岩肌に打ち当たり、沖へと引き返していくその響きはネヴァルリーフに身近だった。ノッド・バトンにもまた。とうに夢のうちに失われた彼らの王国、竜や黒兎、一角獣や歩行石壁、青い光の魔物たちが相争いながら生きた海辺の魔法陣『レヴィアタン』に、波音は絶えることなく繰り返す日常だった。壁が海のすべてを飲み込む破滅のその日まで。夢は奇妙な相似の内に残響していた。そこは島の片すみの小さな森だった。茂る木々を抜けた先に恐らく島端の崖があり、そこで波たちが散り散りに砕けているものと思われた。遺跡外と呼ばれる人々のすみかにとってその森は海風をとどめる天然の防風林をなしていた。中心部の遺跡を主題とする島にあってそこは人間たちの喧噪から遠く、森を好むいくらかの種族のほかに近寄るものは多くない場所だった。
『犬橇』は天上の枝々を折り、その森の大地の一角に突き刺さっていた。フグリは座席につっぷしたまま気を失い、それでも潮の香りに顔をしかめて、時に鼻がひくひくと動いた。それまで恐らく木漏れ日の控えめに触れるほどだったのだろう土や根や石は、今や剥がれた頭上の覆いからそそぐ陽光に心なしか息をひそめていた。土の感触を確かめるようにゆっくりと歩を進め、ネヴァルリーフはぐるりとその新しい世界を見わたした。彼女の知る赤い夢とその大地はあまりに異なっていた。吸った息に肺をくすぐられるようなめまいを感じさせて、けれど不思議と不快ではない倒錯感が胸を満たした。平衡を失い彼女はよろめき、手近の大樹に片手をついた……歳月を経た幹が無骨な樹皮の強さとともにそれに応えた。
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「ボクの見た『島』とは、少し時間軸がズレているみたいですね。 マナは薄れちゃいないのが一安心ってヤツですが、 ネヴァルたん、気分はどうです?」
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『犬橇』のそばで腕を組み問いかけるノッド・バトンの肉体に変調はなかった。彼らの赤い『島』の世界律はマナによる存在の保証だったが、元来が来訪者であり異邦人だった彼にとって、それは世界の外にまで影響する束縛ではなかった。ゴル・ファランギによって得た不死に近い肉体と、彼の魂に適合した次元を渡る『犬橇』と。魂の封印を判決される要因となったコンビニエント・アンサー・トーカーの能力も既に滅びた。彼はひとり、ひとり自由で、もはや遮るものはなかった。とどめるものもまた。ただゴル・ファランギによって定命の外へ出た存在となり、『犬橇』を奪いさえした彼を脅威と見なす勢力も恐らくないではなかった。有罪者ノッド・バトン。とどまれば沈む飛び石のように、錨なくあてどなく世界を流れていく漂泊の宿命が彼に刻印されようとしていた。
ネヴァルリーフは振り向いてわらった。片手で大樹に自重を預けながら。脚から生えた幾本もの根が飢えて踊るようにうねった。マナなしで彼女は生きられなかった……肉食を断って生き延びる豹がいないように。草をあきらめて永らえる羊がいないように。それは不具ではなく欠落でもなく、ごく自然の、彼女が〈そうした生き物〉である以上は逆らえない摂理だった。そしてマナがある世界はあまりに限られていた。根本のところで彼女は生きる土を選ばなくてはならない植物だった。歩き、動き、大地を離れるとしても、それはいつか植え替えられる日のためよりほかではなかった。
だからネヴァルリーフは振り向いてわらった。
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「いいところねきんたま らくになったわよ いいところよ」
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根が一本、また一本と大地へ突き刺さり、深く潜った。飛ぶ土に合わせ青白い光がパッパッと散った。それがこの『島』のマナの色だった。
いっぱいに開いていたネヴァルリーフの葉は少しずつうなだれるように鎮まった。体を走る葉脈の赤が、戸惑うようにゆるやかに流れはじめた。
島の大地に彼女は根を張りはじめていた。
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「いまはへんなのですこしきもちわるいけど なれてくるとおもうわ ここはしねしねのこえもきこえない」
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「……それは、この島が『偽』でできているからですよ。 なんの『偽』かはわかりませんがね。偽ってことは、元がある。 わざわざ偽を作るんだから、よっぽど元のモノが好きなんでしょう」
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「つまりこの島は、 誰かさんの思い出補正の塊ってワケです。 いやぁ〜、そりゃ過ごしやすくもなりますね!」
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「……そう。この島は『偽』でできている。 もう終わっちまったはずのものなんです。 だからネヴァルたん、これも応急処置なんですよ」
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「いずれ、この島はなくなるでしょう。 マナも失われるかもしれない。 その時まで、辛うじてここのモノを使わせてもらうってだけでしてね」
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ネヴァルリーフは弱く首を振った。なにに対して? 咄嗟にはわからなかった。ノッド・バトンの言葉は正しかった。論理的に正当な限界線であり、因果が正常な放物線を描くなら疑いなく行き着くことになる遠くない未来の墜落だった。そうしたいずれ訪れる破滅をあきらめとともに受け入れることで、彼女は夢の島に生き続けていた。ネヴァルリーフ。マナを求めて旅立つことのない歩行雑草として。けれど今はもうその自分の姿はずいぶん遠くのことのように思われた。遠巻きに窺う兎の視線を感じた。折れた枝の上でせわしなく眼球をめぐらせるカケスがいた。蜘蛛が破れた巣を懸命に補修していた。飢えの満たされるより先を奪いあうことなく息づく命があった。世界は変革していた……放物線は歪んだ。ノッド・バトンの手によって。
もう一度ネヴァルリーフは首を振った。今度ははっきりと。揺れる視界の慣性に引かれて全身が左右に傾いだ。瞼が重たかった。異様なほどの眠気が彼女に押し寄せていた。赤いマナと青いマナ、せめぎあう相異なる二種類のマナをどうにか共存させようと体が多くの力を割いているがゆえだった。それでもまだ眠るわけにはいかなかった。伝えなくてはならないことがあった。
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「このせかいがなくなるよりもはやく わたしのところへ」
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「それでわたしをつれていくのよ わたしのいきてゆけるつぎのせかいへ それともわたしがどこででもいきてゆけるほうほうをもって……」
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「わたしがいきてゆけるところを すべを おまえがたとえどこへいこうと おまえはわたしのきんたまよ」
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「……かならずよきんたま おまえのせいでわたしはよくばり おまえのせいでわたしはおまえといたいのだもの」
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「おまえとあうまではせかいのぜんぶが そうなることはそうなるものとして そうでないものはそうでないものとして」
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「そこにあるがままのことが ぜんぶですべてだった」
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「ながいながあいじゅんばんまちのぎょうれつで わたしはずっとまっていたわ わたしのばんにわたしがしぬのを」
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「みんないきようとあちこちにいくのだけれど わたしにはそれはできなかったもの おまえもそうしていなくなるとおもった」
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「でもいちばんいきぎたなかったはずのおまえが でもどうしてだかもどってきた」
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「おまえはどこかへいってもかえってくる おまえはわたしをたすける おまえにならわたしはたすけられる」
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呪文のようにネヴァルリーフは呟いた。半ばは自分へと向けて。その言葉のひとつひとつが眠ろうとする意識の痛みを和らげた。未来になにか明るいもののあることを信じるのは彼女に慣れない体験だった。それゆえ少なからずの不安の影がちらほらと虫のようにまとわりついた。不安は寂しさとして痛みを増した。そうした痛みをけれど噛み潰すように彼女は最後のひと言を続けた。
根は残らず森の大地へ植わり、脚を覆うゴル・ファランギの鱗が戸惑うように数度瞬いてから静かになった。樹へと寄りかかっていた腕は指の半ばを幹に食い込ませて奇妙なバランスを保っていた。天上から吹き込むかすかな風に白い髪が揺れた。頭の脇から生えた葉が葉脈にめぐる赤を日光に透かしていた。ネヴァルリーフは休眠に入ろうとしていた。マナの適合を調整する生き物の本能だった。
ノッド・バトンは頭を掻いた。照れを隠すような苦笑いとともに。地に散らばる葉を踏み分け、ネヴァルリーフに歩み寄った。瞼は閉じていたが、沈みきらない意思がいくらか抗うようにひくひくと震えた。
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「難題をもらっちまいましたねぇ〜。 しかも信じてるとまで言われちゃあ、 これも美形に生まれた宿命ってヤツですかねぇ」
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「……安心してください、ネヴァルたん。 反則技はボクのお手のものですよ!」
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「『ルール』の中じゃ、ボクは鼻つまみ者でしたけどね。 ま、みんなルールを『破れない』って前提でゲームをしてるんだから、 当たり前と言っちゃ、当たり前なんですが」
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「ボールはまっすぐに走る。 フライは力学通りに落ちる。 芯でミートすれば打球は飛んでいく」
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「で、そういう世界じゃ、ボクはつまはじきだったんですよね〜。 『能力』を呪ったこともありましたよ。 でもね、ネヴァルたん、」
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「あきらめないと思えばね。 あきらめないでできる限りのことをやると思えば、 反則ほど心強いものはないんですね〜!」
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『犬橇』が一度大きく震え、フグリがハッと飛び起きた。各部に動力が回り、機械的な駆動音が森の静寂を揺るがした。突き刺さった大地から身を引き抜く『犬橇』は、ノッド・バトンの意思に従って出航の準備を整えはじめていた。
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「しばらくのお別れです、ネヴァルたん。 また会いましょう。 ……この島が沈むよりも早く、ね!」
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ネヴァルリーフの唇が小さく動きかけた。けれどそれは花が風にそよいだ程度の錯覚にも見えた。
犬橇の出航を告げる風が葉や枯れ枝を吹き散らした。虫たちが逃げていくさまはかつて彼らがいた島の偽妖精たちとどこか重なっていた。晴れた日だった。
海鳥の声が木々を隔てた遠くで響いていた。その日も変わらず羽ばたく鳥たちには鳥たちの絶望があった。大地には大地の。そして海には海の絶望があった。大空は終幕をはるかに遠く晴れわたり、けれど存在はあらゆる様態の庭にいまだ花ひらくことのない一抹の破滅を種として秘していた。有機物も無機物も現象も観念もすべてはやがて終わるものだった。それこそが世界内に存在するということにほかならなかった。後にひたりとつく未来の墜落を振り切ることはできない。滅びとのレースをだれも走り切ることはできない。けれど走り続けることはできた。少なくともその到来を遅延させることはできた。いつまで? 終幕にふさわしいその時まで。受け入れるに足るひとつの破滅と出会うその時まで。彼らにとって世界の終焉はそうした破滅ではなかった。はじめなくてはならないいくつかの明日があり、終わらせたくはない手の中の未来があった。ゆえにこそ息を継ぐように世界間を満たす無の波を渡りひとつの島へと漂着した。抗うことだけが希望だった。暗い波間に垣間見える極星のように、小さく不動の希望だった。自由と引き換えに己の属する世界を拒み、世界律に抗い、終焉を逃れて、彼らは帰るべき世界を失ったのだった。
島の遺跡外のはるか上空にごく小さな『穴』が開き、一条の黒い輝きを飲み込んで塞がった。広い海にはその日にも島にたどり着こうとする何艘かの船たちが見えた。点在する小島に立ち寄り糧食を補充するものもあった。波の少し背を下げる時おりには海面に魚群の影も見えた。エルタの地を北に遠く、世界を隔てて赤い島からはなおも遠く、陸の間を満たし分かつ海原に小さく切り取られた孤島だった。その島では冒険があり戦いがあり、少なくはない悲劇と喜劇があった。また生まれ出ようとしてもいた。それらの物語はけれどいまだ語られざるものとして不定形の運命の内に留まっていた。いつの日か因果と自由意思が光を放ちひとつの沈黙を打ち破るその時まで。
そうした物語たちに関わることなく、ひと茎の歩行雑草が島の片すみで眠り続けていた。彼女とひとつの約束を交わし、旅立った流浪の橇があった。彼らの属していた夢はもはや沈没していた。世界を失ったがゆえに居場所を持たない彼らには、世界から失われたすべてを宿すその島さえも仮の宿にほかならなかった。彼らはやがての再会を待ち続けていた。終わった物語に属する者たちがみなそうであるように、息を潜めて。ひそやかに。ただそれぞれの未来だけは握りしめて離さずに。
島は明るかった。人々は遺跡外に賑わっていた。その日も変わることなく。
海鳥が長い長い声で鳴いた。引き絞るように長く長く。途切れることなく。声が続く間に波が幾度も砕けた。野生にはあるはずのない長い鳴き声だった。けれど遺跡外の市場に遠い空のその声に注意を払う者はなく、やがて時の中に消えていった。忘られるあらゆる意思のありかたと同じように。
あとには波音が残されていた。
Fin
ネヴァルリーフ/E-No.945
ノッド・バトン&フグリ/E-No.1020
ノッド・バトン、フグリのアイコンはノッドPL氏謹製のものです。
背景画像 bg1.jpg は symalis 氏謹製のものです。Fallen Islandの
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