夢の沈没

 四方を閉塞する壁に切り取られた天空へ焦痕のように鳥たちが羽ばたいた。
 母を呼ぶような海鳥独特の鳴き声が引き裂いた空は狭く赤くけれどなおも晴れてわたった。変わらない滅びの色は精一杯に広げられた鳥たちの翼も塗りつぶすに至らなかった。追いつめられた世界の終点の砂地にあって降りてくる終幕の気配に生き物はそれぞれの叫びで応えていた。マナを失い空間にゆるく滲むかに消えていくもろもろの輪郭。充分のマナにもかかわらず冷えていく体温。開こうとする瞼の隙からこぼれる明るさに夢は耐えかねていた。滅びのはじまりだった。

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(もしかするならとりは あいつらはずっと
 あらがっていたのではなかったのかしら)
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(ぬりつぶせないそらへむけてひっしに
 でもぜつぼうしながらはばたいていたのではなかったかしら……)

 ネヴァルリーフと呼ばれた歩行雑草もまためまいとともに空を見上げていた。争い合う地獄の中に生まれその生の半ば以上を一歩も動くことなく過ごした彼女にとって破滅はひとつの具体性を欠いた夢だった。継続する地獄に降りる終幕、その到来を待ち侘びながら彼女の想像力では世界すべてを終わらせる崩壊の瞬間を思い描けなかった。〈おわり〉と〈死〉という小さな語彙だけが身近で、ただけれどそれは世界という対象へ適用するにはあまりに馴染みのない規模の抽象作用だった。八日間をかけて訪れた終末のその結部にあっても、なお風景はどこか現実を離れていた。

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(……)

 左手を握りしめればまだ暖かった。長く骨ばったその異形の指と確かにともに取り合った手の名残りだった。冷めやらない彼の体温のひとかけが未来永劫に残り続ければいいと思った。それを片手に生きることもできるのだと。
 熱をもたらした男の手は砂地に横たわる小型の馬車ほどの機械をせわしげに弄り回していた。かたわらに直立の犬が控え、頬を緩ませぱたぱたと振る尾を抑えきれずに、投げかけられるいくつかの質問に応えていた。滅びゆく島の中で彼らの周囲には時を経た再会の喜びといささかの照れくささがきらきらと明かりのようにまたたき、しねばいいのにとネヴァルリーフは思った。

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「『犬橇』形態の空間転移機能にも傷はなし。
 いやぁ、乱暴に扱っちまいましたが、丈夫なもんですねぇ!」
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「今やゴル・ファランギの再生能力も『犬橇』の一部ですからね。
 でもノッドさん、もうあまり時間がない。
 世界の崩壊よりも速く、跳べるかどうかは……!」

 投げかけられる警告にけれどノッド・バトンは不敵な笑みで応えた。一部が大きくひしゃげた『犬橇』のマットな黒色の装甲は内圧に押されるように少しずつ形を戻していった。樹皮のような鱗のような硬質の色にその外壁を冒されながら。名づけるなら紫に近い、けれどその色とはどこか異なってはいけない部分が決定的に異なった、この世ならざる光がラジエーターや排気孔の影を喰うようにきらめいていた。ゴル・ファランギ、異国の花。寄生者の体を半ば強制的に再生させる魔界の生物。ある少女の命運を悲劇のうちに留めようとした責め苦の呪具であり、ひとりの男からノッド・バトンが奪った奇跡の一手だった。
 『犬橇』、ノッド・バトン、ネヴァルリーフ、そして今は滅びたコンビニエント・アンサー・トーカー。ゴル・ファランギによって結びつけられ、ゴル・ファランギを共有し分有した彼らの生命は、核となるその枝を手折られない限りのかりそめの永遠を手にしていた。そのゆえに彼らはもはや自らの種族からはかけ離れた存在となってもいた。
 人間でもなく、歩行雑草でもなく。『犬橇』もまた『犬橇』ではなく。
 本来はノッド・バトンの魂を封印し搬送するために用いられていた『犬橇』はその魂との親和のゆえかノッド・バトンと互いに同調していた。元来搭載されていたいくつかの変形機構は、ゴル・ファランギの多形性の補助を得てさらに柔軟な形態への変化を可能にしていた。
 今や『犬橇』は上部の開いた、文字通り橇に似た乗員部分と、そのの背部に大ぶりのエンジンを積んだ姿へと変わっていた。横一列に三人ほどが並んで座れそうなシートには、中央の席にコンソールを伴った操縦桿があった。

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「ドラえもんの昔から、時空転移装置はオープンカー!
 様式美ってヤツですねぇ」
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「……それじゃ、乗り込んでください。ネヴァルたん。
 もう、このまま世界に沈むつもりはないんでしょう?」

 振り返り向けられた笑顔にネヴァルリーフは一瞬ためらった。その笑顔が自分に向けられたものとまだすぐには信じられなかった。戦いを終えてひと息をついた今となってはサングラスに隠されていた赤い瞳を見るのはまぶしかった。どうしていいのかわからずにとりあえず殴りかけたが、かろうじて止めた。

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「……いくわよ
 だってあのときはあるけなかったのだもの
 ああいうしかないじゃない でもいまはちがう」
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「……おまえといくわ」

 彼女の踏み出す足もまた紫の鱗に覆われていた。乾いた砂から足を浮かせるそのたびにぴちゃんと粘質の水音が響いた。歩行雑草としての生来の不具さえ取り払ってみせたゴル・ファランギの群体がぬらりと怪しく光り輝いていた。けれど一歩ごとにまだやわらかな足裏はひどく痛んだ……慣れないいささか危うい歩みをノッド・バトンが手を貸して支えた。
 犬の死神、フグリは既にシートに腰掛け『犬橇』のコンソールを操作しようとしていたが、やがて頭を振った。

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「……やっぱり文字盤の表示もぐちゃぐちゃだ。
 もうノッドさんでないと、この船は操縦できないでしょう」
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「なぁに、フグリちゃんは大船に乗ったつもりでいてください。
 僕が真ん中。フグリちゃんとネヴァルたんに脇を固めてもらいましょう。
 両手に花って陣形ですねぇ」
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「……おまえ メスだったの?」
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「……」

 目覚めようとする島には彼らのやりとりを見ている者もないではなかった。それぞれの方策をもって訪れる目覚めへの態度を決めていた者たちも視界の端々に映るその明らかに脱出を目指すやりとりに興味を示さないことはなかった。壁に区切られたごく狭い砂地にある数百名のうちに、しかしなぜか斬りかかる者はいなかった。それもまた終末を前に綻びていく世界律のゆえだろうか? その日、島内二十日目の夜には、ひとつの戦いも予告されることはなかった。
 ネヴァルリーフは己の中に長いこと響いていた声、〈しねしね〉と鳴く虫のような声がいつしか途絶えているのに気づいていた。にもかかわらず頭の中は靄に包まれていた。疲れが首と頭を包み意識はひどく重たかった。〈おわり〉という言葉がなんの属格名詞を伴うこともなく心のうちに反響していた。世界がその内の存在者を引きずり込もうとする終焉の沼から、けれど足を引き抜くように彼女は犬橇へ上がった。空は、空は空のままだった。鳥の声は変わらずに悲鳴めいていた。
 息をつき、シートに長大な手足を折り曲げて窮屈に腰かけながら、彼女は島を振り返った。荒れ地と亡骸ばかりが残された島。島の方々を彩りそれを求めて多くの者がさすらった魔法陣さえ今やただのひとつもない島。感情に小さくさざ波が訪れたが、彼女はその心を呼び表す言葉を持たなかった。それを呼び表し読み解くのは、恐らく彼女の役割ではなかった。
 ノッド・バトンがその肩を握り、彼女は肯いた。世界の終末とともに沈没しないことを彼女たちは選びそうしてつかみとったのだった。

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「出ますよ、フグリちゃん。ネヴァルたん。
 長くて短い夢でしたが、ここらが醒め時みたいです」
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「それじゃあ、
 ひとつ格好良くイキますか……
 コホン」
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『犬橇』、出航です!

 掛け声とともに操縦桿が大きく引かれ、『犬橇』が浮かび上がる。砂煙が舞う。風の音も叫びも悲鳴もかき消すように回るファンが機械特有の力学的な高音をあげる。胴部に刻印された『睾丸』の二文字が顕わになり、吹き抜ける熱風に疾走雑草やジャッジメント偽妖精たちが逃げ離れていく。『犬橇』は地を離れ飛ぶ。高く高く。高く聳える壁に沿って上昇を続ける彼らの視線の遠くに小さな黒点が現れ、一瞬後それは『犬橇』を飲み込むほどの空間の『穴』となった。

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「!!」
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「すごい!
 これだけ大きな『門』がスムーズに開くなんて……!」
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「それだけ、この世界が不安定になってるんでしょうねぇ。
 突っ込みます!
 お約束ですが、しっかり掴まっててくださいよぉ!」

 『犬橇』は穴へと加速した。ノッド・バトンは操縦桿を握りしめ、ネヴァルリーフは橇の脇面に強く指を立ててぐしゃりとひしゃげさせた。ゴル・ファランギの紫が慌てたように破損面へ集った。
 フグリはノッド・バトンの腕にしがみつき(ネヴァルリーフの目が赤く光った)、自然、橇の横にいまだ途切れることなく続く壁が目に映った。煉瓦を積み上げたような赤茶けた一面の壁。島の生けるすべてを中央へと追いやり、そうして今、世界に終わりをもたらす壁。その壁を構成する一角に黒い染みのような布の端切れを巻きつけられた小さなブロックがあった。端切れ? 端切れではなかった。それはネクタイだった。ネクタイを巻き帽子を被った歩行石壁だった。
 〈彼〉はぼこりという音ともに壁を離れ、気にするように埃を払った。それまで彼が嵌っていた壁のくぼみに、背(?)を曲げて腰かけた。壁と壁の間で折れ曲がっていたのだろう帽子のツバがぴょこんと飛び出た。

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「グッドラック!……」

 加速に伴う風がフグリの耳朶を打ちそこから先は聞こえなかった。歩行石壁は帽子を脱ぎ、大きく振ってみせた。見送るように。彼の体からは赤いマナがほどけるように少しずつこぼれ、それに伴い姿は薄れはじめていた。終わろうとする夢の、彼も一員だった。
 『犬橇』は空の裂け目のように光を吸い込む暗い暗い穴へと突入した。沈みゆく世界を背後に残して。ノッド・バトンの笑いが響いた。長いこと島を彩ってきた暗く惨い風景たちと裏腹にそれはやけに明るかった。
 島は遠く小さく、今や星のように赤かった。茫漠とした異界の荒野にまたたく微小な夢のひと欠けだった。けれどそこで彼らは生きていた。そしてまたいくらかの者たちがそこに残った。ノッド・バトンの脳裏を、ネヴァルリーフの脳裏を、そう多くはない、けれどまだ忘れることのない顔と名前がゆきすぎた。鮮やかに痕跡を保つ思い出の対象を、彼らは残したまま飛び立っていた。荒涼とした夢の大地には、ひとつのうつむきがちな種さえ顧みられることなく横たわっていた。……

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