空の星に似て〈世界〉は点在していた。頭上に。あるいは真下に。右手奥に。はるか遠くに、時に触れるほど近くに。恒星のようにそれぞれに異なる世界律を保ちながら。ある世界は人間たちの王都が焼き滅ぼされようとしていた。ある世界では湖の底から古代兵器が引き揚げられようとしていた。ある世界では人型の戦闘機が仮想空間で戦闘を繰り広げ、ある世界では青髪の少女の肖像が神殿へ飾られ、またある世界では鍵を携えた男が雨の沙漠に斃れていた。中には同じ世界のようでありながら数百年の時を経たかに文明が進捗しているものもあった。そうした時空間で接続する世界たちは房のようにごく近くに配置され、不定形の生物がお互いを浸食し合うようにゆらめいていた。世界内の因果と自由意思が不定のままにあるその世界の行方を定めるのだった。ひとつの未来が定まる時には、灯台のように世界の一点から光が走った。それは世界内の存在のひとつの行為が運命を選び取り世界の行方を彫刻する刹那のひと振りの輝きだった。深々と突き刺さる聖女の剣。自らに引き金を引く指導者。仔を逃がす三つ脚の母狐。パンを拒んだ女を睨む孤児。咆哮する半獣神。濁流のなか息絶え絶えに岩に縋りつく将校。樹の枝を蹴る原始の鳥。……
八方にきらめく異界たちのはざまを『犬橇』は滑るように進んだ。世界の〈存在〉のほかは〈無〉だった。〈無〉によってそれぞれの世界は隔てられていた。けれどそれは裏を返せば〈無〉によって繋げられているということでもあった。世界と世界のはざまは〈無〉に満たされていた……『犬橇』はその〈無〉を空間であるかのように航行する性能を備えていた。
ある世界がごく間近にある時には、その世界の声や音、香りが『犬橇』にも届いた。薄膜を隔てているようにくぐもった音、おぼろな香りではあったが、それぞれの世界ごとに異なりながらどれもどこか心を騒がせる懐かしさを持っていた。
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「さて、まずは安定航行と……希望はありますかい? あの島みたいなファンタジー世界も、ボクのいた世界も、 どこにだってイケますよ!」
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「とは言え、フグリちゃんを送ってあげないとですからねぇ〜。 あまり『死神』たちの世界からは離れられないんですg」
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ネヴァルリーフは橇の座席に体を折り曲げぜェぜェと息を荒くしていた。頭から覗く何枚かの葉をいっぱいに開き、懸命になにかを取り入れようとしていた。ゴル・ファランギの鱗が胸や顔の周りを走り回っては対処を失い彼女の脚へと帰った。全身に走る葉脈が鼓動するように脈打ち、見開かれた瞳の赤い色がハシバミ色へゆっくりと褪色しはじめていた。
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「マナ不足!? なんだって今さら! ゴル・ファランギの無限再生能力があるはずでしょう!」
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「あの枝も、マナ不足で消える宿主を繋ぎ止める力は無いんです! そもそもあの再生能力は『宿主の侵食と置き換え』…… 彼女が消えてしまったら、ゴル・ファランギが残るだけなんですよ!」
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「ノッドさんのように後天的に島に来た人とは違う。 あの島で生まれたネヴァルさんは、マナはもう生命活動の一部。 マナなしでは、存在を維持できない……!」
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目を凝らせば細い赤い光が糸くずのようにネヴァルリーフから零れていた。フグリが島を離れる最後に見た歩行石壁の体から漏れていたそれと同じように。マナ。彼女の故郷たる、そして彼らの巡り会った夢の島に留まるための力の源。空中を流れて『犬橇』の周囲を離れるやそれは世界間の〈無〉へ呑まれて消えた。蜜のように気だるい香りだけがかすかに残っていた。
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「今のネヴァルさんは、電源から離されて 内蔵電池だけで保っているような状態です! いつ途切れてもおかしくありません!」
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「でも『島』はもう閉じてしまった。 あの世界に引き返しても、終末に飲み込まれるだけ……!」
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二股に分かれたネヴァルリーフの脚からはかつて鋭く地面に喰いこんでいた太い根が行き場を失って蠢いていた。『犬橇』の装甲の隙間に潜り込もうとするそれら根たちの侵食を橇の側に寄生しているゴル・ファランギの鱗が弾き返した。根はマナを求めていた。……それは『犬橇』の内にあった。そしてノッド・バトンの体にも。それを喰らえば長らえることを、根は本能的に察していた。苦痛を堪えネヴァルリーフが殴りつけた衝撃で『犬橇』の船体は大きく傾いだ。
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「ダメだ、このままじゃ飛び続けられない! どこかの世界に不時着しないと!」
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「異次元から来た人間を咄嗟に受け入れてくれる港は、 『イススィール』か『サバイバルゲート』か…… ノッドさん、今の座標を読んでください!」
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でたらめな数字を示す計器を前にしてフグリが上げる悲鳴に、しかしノッド・バトンは応えなかった。彼は逡巡していた。己の体を差し出すことにではなかった。それをしてもネヴァルリーフの消滅までに稼げるのはほんのひと時にすぎない。解決策にはなりはしなかった。何より彼を失えばもはや『犬橇』を操縦できる者はなかった。ノッド・バトンを迷わせるのはひとつの追憶だった。ネヴァルリーフから零れるマナの香り。それとよく似ながらどこか異なる香りを彼は嗅いだことがあった。赤い夢の島でではなかった。島の日々の中でのわずかひと時、一日のあいだ彼は『島』の外へ出る夢を見たことがあった。その夢にあっては彼の頭蓋にもまた響いていた声、〈しねしね〉という合唱は途切れていた。その時は気づかなかった。けれど確かに思い返せばそこには今ネヴァルリーフから零れているような、マナの香りがあふれていたのだ。
記憶に声が閃いた。録画でごめんね、と呟く明るい男の声。
そして情景もまた。
『島』での第11日目。彼は鶏と包丁をそれぞれ片手に、別の『島』にいた。ほんのひと時。そこは彼の知る『島』ではなかった。錯覚だったのかもしれない。幻だったのかもしれない。けれど、確信があった。そこは確かに存在する世界なのだと。
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「ボクの推測が正しければ、マナはあの島だけのものじゃない。 あるんです。他にも、 マナがぎっしり眠ってる世界がねぇ〜!」
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「でもこれだけ無数の〈世界〉から、 どうやってそこを見つけるんですか!?」
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「フグリちゃん、自慢の鼻を利かせてくださいよ! マナっていうのはねぇ、 どういうワケか、匂いがするモノなんですよぉ!」
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『犬橇』は大きく軌道を変え、世界間を疾走した。異なる時間軸、異なる歴史を辿ったいくつもの世界が背後へと尾を引いて消えていった。それは意思の因果で未だ繋がれることなく可能性のうちに留まっていた過去と未来たちだった。相会うことのない並行世界たちのうちには終わりを迎え〈無〉のはざまに消えていくものも少なくはなかった。いくつもの世界の行方の概観を可能にするその神の視座にあっては、歴史も空間もあまりに儚かった。
フグリは目を閉じ一心に鼻を利かせた。ノッド・バトンは右手で操縦桿を握り、左手で暴れるネヴァルリーフの根を押さえていた。その腕には根が絡みつき手首から先をもぎとろうとしていた。彼女には植わるための断面が必要だった。
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「……きんたま はやく わたしはわたしを おさえられない!」
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「どうしてこうなる? しねしねのこえはもうきこえないのに どうしてわたしはいきられない?」
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「ネヴァルたんはちょいとお寝坊さんなんですね。 終わったはずの夢に追いかけられてるってワケです。 でもね。大丈夫です」
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「……ありました、ノッドさん! 少し異質ですけれど、確かにマナです! 『エルタの地』の真南に浮かぶ孤島……!!」
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フグリの指さす先には緑あふれる小さな島があった。島上には少なからぬ人物が集まり、通商や交流を交わしていた。休養する者、情報を集める者、食料などを販売する者……小高い丘には穴兎たちが跳ね、一群の鹿が小さな森を駆けていた。島の中央には大きな階段が口を開け、武装した面々が出入りしていた。そして確かにその世界からは、いや、その島を彩る樹も土も風も、すべてからは、少なからぬマナが香った。ノッド・バトンは目を見開き大きく息を吸った。彼の知る島だった。よくできましたフグリちゃん。彼は呟き(心なしか根の締め付けが強くなった)『犬橇』の針路をその島へと差し向けた。
ネヴァルリーフはハッとして顔を上げた。苦痛が和らいでいた。その島にはマナがあった。故郷よりもひと回り大きいその島に彼女は言い知れないゆかしさを感じていた。マナのためばかりではきっとなかった。本能よりも深いところで予感が頭をもたげていた。その島に降りなくてはいけないと告げるなにかがあった。
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「仮称『島』の世界律圏に入ります! ……向こうは真っ昼間! 眩しいですよぉ〜!」
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ノッド・バトンの掛け声とともに『犬橇』は傾斜し、世界へと突入した。
ひときわ強く潮風が鼻孔を刺し、千切れそうなほど熱い白光が『犬橇』を包んだ。
遠くで海鳥が長く長く尾を引くように鳴いていた。……